「フェイクニュース時代のメディアの生き方 〜これからメディアは何を担うのか〜」に参加して
はじめに
およそ一か月前に、1/30(水)に株式会社ZEPPELINが主催のイベント、「フェイクニュース時代のメディアの生き方 〜これからメディアは何を担うのか〜」というイベントに参加してきました。今回はこのイベントに参加してみての感想をブログに徒然なるままに書き出していきたいと思います。
きっかけは大学同期の当イベントの参加でした。私はメディアに関して考えたこともなかったですが、「著名な方のお話を聞いて、今後メディアについて考えるための一助になればよいなあ」と思い、参加を決意しました。実際はその同期も登壇された方のことをあまり知らなかったらしいのですが。
ZEPPELINさんは、デジタルサービスのUI,UXを通じて人に豊かになってほしいという理念をもつ企業。
登壇された方は、佐々木俊尚さんという方で、後々調べてみたところ、とても有名なジャーナリストの方でした。イベントに参加する前に登壇者の情報くらいは少しは把握すべきでした…。
分かったこと
メディアの変遷
高度経済成長期
- この頃は1億2000万人の国民全員が政治に参画する時代で、彼らの考えを代弁する手段がメディアであった
- 意見を収集し、情報を選択、その後に政治に意見をぶつけるというのがメディアの仕事内容
- 何かと二分してれば物事が成立していた時代、「与党」や「野党」というように
-
フェイクニュースやデマというのは真っ向から否定されていた
1980年から2000年頃
→これはメディアが社会をどう捉えるかに悩み始めたが故の迷走
例)メディアが注視している生活保護を受けている人の収入は普通に働いている一般家庭の収入より多いことがある
→社会を構成している中間層がすでに崩壊しはじめているにもかかわらず、メディアはマイノリティばかり見ていることの証左
現在
- 現在のメディアは社会の構造の変化についていけず、どこを切り取ればよいのかわからなくなっている
- メディアは二極化では表せない今の社会に対して、二極化の幻影を追い求めている
- デマやフェイクニュースが否定されなくなった
<原因>
① 世の中が複雑化していて、今までは一概に「悪」といわれていたものも、様々な点からみると決して「悪」とは言い切れなくなった
例)「物価が上がる」ことは、一消費者から見たら悪いことかもしれないが、一方で、「物価が上がる」ことは景気が良くなっているということもあり、デフレを経験すると、必ずしも「物価が上がる」ことは悪とは言い切れないだろう
② 1995年からのインターネットの出現
→2011年頃から普及し始めたインターネットによって個人が源となって情報を発信することが可能になり、それによってデマが強化される
→デマを信じる集団がカルト化し、カルト化した集団で意見をぶつけ合うこともある
ネットの炎上
- ネットの炎上に加担する人は全ネットユーザーのおよそ0.3%
- 過激な情報を信じやすいのは60~70代で、年をとればとるほど過激な情報を信じやすくなっている
→高度経済成長期を生きてきた人は、メディアがテレビ、新聞という嘘を言わないものが中心であったので、媒体が多様化した今でも、メディアは嘘を書かないと信じているから
- 20~30年経つと、過激な情報を信じる人が少なくなり、過激化が収まる可能性がある
公共圏について
- 公共圏とは、ハーバーマスの定義によると、「政治への参加者が集う場所」という意味がある
- 1960年までで、テレビや新聞などの商業主義の媒体の出現により、公共圏が破壊される
- その後、1960年代には学生運動やフェミニストの運動が盛んになり、国民の政治意識が高まることで、公共圏が再構築される
- その後、インターネットの普及により、再度、公共圏が破壊されたのが現在
→新聞は一年で220万部発行部数が減り、2040年までに0になってしまうのではないかと言われている
- インターネットが普及している現在でも、政治の中心である永田町の公共圏はテレビや新聞である
- 新聞も若い人が読まなくなっているので、高齢者向けに内容がシフトしていっている
→上記二つの点を鑑みると、今の社会は高齢者民主主義になっているといえる
- インターネットが普及したが、インターネットは公共圏となりうるのか
→Twitterにはその役割を果たすことはできないのではないか
<理由>
- 140文字で人の思想などを表現することは難しい
- 基本的に感情的なものが多い(脊髄反射)
→だからここで中立的(理性的)なプラットフォームがあればインターネットが公共圏になりうるのではないか
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- 今は世界が複雑化しているので、専門家が専門分野以外のことを話さなくなってしまった
→人を動かすのは論理ではなく感情で動かす時代に変わってきている
- アリストテレスが弁論をするうえで大事だと語った三つの技術
- パトス(感情)→人は動かされやすい
- ロゴス(論理)
- エトス(行動、信頼)
- パトスとロゴスのバランスが大事であり、エトス(行動や信頼)で人を動かすリーダーの存在が増えていくのがこの社会では大事
→最近のテレビのコメンテーターなどは、幻影の国民の代弁者であり、そこに確かな信念などは存在しない
メディアの展望
- メディアの定義は昔は「媒体」「チャネル」という意味だったが、ゆくゆくは手段等を問わない人と人が情報をやり取りする「空間」という意味になるだろう
→今はメディアが手段(Twitter,Facebook,LINEなど)ごとに水平分離しているが、これがゆくゆくは文化として垂直統合し、一つの文化空間を形成するのではないか
→我々はこのように新しく創られたものに対してはのっかるしかなく、そのなかで自分に合うようなものを試行錯誤して探していくべきなのではないだろうか
グローバリゼーションについて
→逆にこのことが各国の警戒心を高めているといえる
コミュニティの変遷
- 現状は、会社という共同体が崩壊し始めて、個人が一人で生きていくという思いをもって自己啓発に励む
→しかし、ゆくゆくはこの潮流は終わりを迎え、同じ文化的な価値観を持つ人とゆるーい共同体を持つ時代が来る
- 共同体のメリット、デメリット
→メリットはどこかの集団に属しているという帰属感
→一方で、外からの意見を受け付けなくなり、民主主義が損なわれる可能性があるというデメリットが存在する
→一方で、共同体主義には同町圧力が働き、集団にいる人が息苦しくなるというデメリットがある
→同調圧力が働くのは集団に中心があるからで、テクノロジーの発展で、中心のない集団を作ることは可能なのではないか
情報があふれている時代で人はどのように情報を取捨選択すればよいのか
- 何かの情報を判断するということにおいて、全員が判断基準を持つ必要はない
→しかし、直感は存在するのでそれを軸に選べばよい
→ただ、それは正しくないことがほとんど
- 「A」という意見を持っている人が「B」という意見を聞いて、「A´」という意見に変化する、この修正という変化のプロセスことが民主主義の骨頂である
インターネットと硬派なジャーナリズム
- 硬派なジャーナリズム → 描写が固い(上から)
- インターネットで読まれる記事 → 我々と同じ目線で描かれている(横から)
→どのような目線で読者とつながるのかを考える必要がある
- インターネットは情報が多く、ゴミばっかりがあるのではないか?
→そんなことはない、ゴミだと思うのはゴミしか見ていないからであり、それを別の角度から見れば、学びになるのではないか
おわりに
今回はこのようにメディアの変遷からコミュニティについてまで様々なお話を聞くことができました。初めてメディアについてのお話を聞きましたが、意外な事実をたくさん学ぶことができました。
とりわけ一番意外だったのは、炎上に関するデータです。芸能人の炎上などよくニュースになることが多いですが、個人的には寄ってたかって人をたたいているイメージがありました。実際は全ネットのユーザーの0.3%しかこの炎上に加担している人がいないので、相当イメージより少なかったとともに、この一部の人の意見を切り取って放映している現状のマスメディアは本当に「マス」なのかという風に感じずにはいられませんでした。
また、テクノロジーに関してとても好意的にとらえていることも印象的でした。イメージ先行でしたが、この手のイベントではテクノロジーは否定されてしまうのではないのかなと感じていました。しかし、実際のお話の中では、「テクノロジーに合わせる」や「テクノロジーが発展すれば可能」など、好意的にとらえていて、とてもいい意味で驚きました。
全体的には話の内容はとても難しかったように感じました。メディアというのが実体のない概念みたいなものだからでしょうか。その中でもお話が終わった後に、点と点がつながるような感覚を味わうことができたのはいい経験でした。
と感想を徒然なるままに書きましたが、さすがに間が空きすぎていて、内容が頭から抜けていました。今後はイベント終了後、早めにブログを書くことができればと思います。